蘇我氏はあくまでも「非道」か 〜大化の改新の背景を見つめ直す〜

古代日本の歴史を勉強していく中で、「覚えるべき登場人物」が何人にも及ぶ初めての出来事と言えば…

それは大化の改新です。

学校で習う大化の改新は、かつて「む(6)し(4)こ(5)ろす」など年号の語呂合わせとともに語られたわけですが、とかく蘇我氏の非道ぶりが強調されたものでした。

ところが、近年の研究を踏まえると、どうも違う捉え方もあるようです。

 

話は、6世紀の終わり、厩戸王(聖徳太子)・推古天皇蘇我馬子の時代にさかのぼります。

このころ、厩戸王、推古、馬子の3人は共同して政治を行なっていました。つまり、大王家と蘇我氏はよい関係にありました。しかし、馬子をはじめ、この3人が亡くなると、大王家と蘇我氏の関係は悪化していきました。

蘇我氏が、権力欲しさに大王家をないがしろにし、この状況に危機感をもった中大兄皇子中臣鎌足蘇我蝦夷を討ち、入鹿自死させた。この流れで大化の改新は説明されてきました。

 

確かに、大化の改新の起きる7世紀の中頃には、大王家と蘇我氏の関係は悪化するのですが、最近では異なる説明が提示されています。

このころ、東アジアには隋に代わって唐という巨大帝国が立っていました。

アジア諸国にとって、巨大帝国である唐とどのように関わっていくかは、未来の国家(権力)の存亡に関わる政治判断とも言える課題でした。そのような中で、中大兄皇子は、唐やそれにくみする朝鮮の新羅との関係の構築よりもむしろ、古来親交のあつい百済との関係を優先しました。一方の蘇我氏は、この政治課題について、唐や新羅との関係を固めていくことの重要性を認識していました。

この外交姿勢の対立が、大王家と蘇我氏の対立点の一つになったと最近では言われています。

 

この一点で蘇我氏が非道であったか否かの結論は動かせませんが、歴史上、蘇我氏が「悪者」にされ続けてきましたが、それでいいのかを考えるきっかけにはなりそうですね。